NO CONCEPT 〜隠者の戯言〜

再び人生を楽しむことを思い出したいとある塾講師のブログ

充実した日々を過ごすために

 昨日、今日と、ピアノのレッスンがあった。極めて充実した二日間となった。普段、仕事の時間以外は何をするにもやる気が出ず、無益な時間を過ごしている私にとっては注目に値する体験だったのだが、今回は、なぜこの二日間はこれほど充実していたのか、その理由を詳しく考察してみたい。

 

 そもそも、どうして普段の生活は充実していないのかといえば、それは、一言でいって、「迷い」にあるからだ。迷いというのは仏教的な(「無明」の)ニュアンスで言っているのだが、要するに、やるべきことが明確でなく、何をしたらよいのか分からないという状態だ。こういう状態だと、エネルギーを浪費するだけで、一歩も前へ進むことができない。

 

 ところが、今回のピアノのレッスンのように、全力で取り組むべき課題が目の前に与えられると、(過去のトラウマから)逃げ癖のついた私でも、必死になれる。だから、何かしら生み出すことができる。それで、生の充実を身に覚えるのだ。

 

 だが、普段の時間だって、全力で取り組むべき課題はあるはずだ。どうして必死に、あるいは無我夢中になれないのか。

 

 まず、やるべきことの範囲が絞り込めていない。そもそも夢が、というか、煩悩が大きすぎて、やりたいことが多すぎる。私は万能人になるのが夢なので、あらゆる学問に精通したいし、音楽も美術も(できればダイエットしてスポーツも)完璧にこなしたい。そんなに大きな夢があるのなら、さぞかし毎日努力に励んでいるかと思うかもしれないが、実際は、焦りだけが募って、ほとんど全く前へ進んでいない。

 

 一日でできることは限られている。だから、何を目指すにせよ、その日にすべきことは自分の意志で制限して考える必要がある。だが、うまく優先順位をつけられないので、大概の日は、「何をしようかを考える」作業に多くの時間を費やしている。本当にバカバカしい。

 

 では、なぜピアノのレッスンの場合はうまくいったのか。それは、人との約束だからだろう。レッスンを予約したのだから、滅多なことがない限り、レッスンの時間は否応無しにやってくる。この「約束による強制力」というやつは、意外と自分の味方になってくれるのではないだろうか。強制力は強い方がいいから、できれば目上の人との約束、それも、尊敬できるような人との約束であるのが望ましい。

 

 尊敬というのもキーワードかもしれない。過去に絶望のどん底を味わってしまった私は、人、物を問わず、尊敬できる対象があまりない。尊敬するものに近づきたい、という感情が、最も強いモチベーション(意志への強制力)になるのかもしれない。

 

 いま、尊敬の対象がなくなっていると言った。ピアノの先生は尊敬の対象だが、万能人という夢はどうか。「万能人」は、私の未来の姿だった。彼は、今でもかつてのように光り輝いているだろうか。

 

 夢を考えるとき、それが万人の幸せにつながるかどうかが重要だという話をたまに聞くが、その必要はない。なぜなら、もしそれが夢として成立するのなら、それは万人の幸せにつながるはずだからである。私はそう考える。万能人というのは一見、ナルシスティックな願望に思われるものだが、もし私がそれになった場合、人の役に立つことは目に見えている。

 

 いま教師をやっていることともつながる。人に至高の知恵を授けるために万能人になるのであり、万能人になるために人を教える仕事をしているのだろう。

 

 夢を思い出す。これが今回の結論になりそうだ。私は他でもない私の夢を叶えるために、努力する。今までは、どこか不自然な形で「うまく」自分をコントロールしようとしていた。これからは、もっと自然に、なりたい自分になるために、一期一会の精神で、一瞬一瞬と向き合っていきたいと思う。